東葛地域のレンガ造りの歴史的建造物


■利根運河北岸の樋管



 レンガ造りの樋管(ひかん)です。利根運河北岸、利根川との境の運河水門のすぐ近くにある歴史的建造物だそうです。

 樋管とは小規模な水門とのこと。このレンガ造りの樋管は農業用水を取り込むためのもので、増水時には水門を閉じて水田が水浸しになるのを防ぐ働きをしたようです。上部にはやはりレンガのプレートが埋め込まれており、そこには「明治四拾壱歳五月築樋」と刻まれています。

 つまり、この樋管は明治41年に完成したようです。明治41年と言えば1908年。おお、ちょうど100年前ではないですか。その頃と言えば、利根運河の水運の全盛期ですね。



 冒頭の写真は樋管を西側から眺めたものですが、土手を挟んで東側、つまり利根川方向から見たのが左の写真です。真ん中のくぼんだところにゲートが置かれ、増水時にはゲートを下げることで水害を防いだのでしょう。

 この樋管、水門としての機能を喪失して久しいようですが、水路としては健在です。樋管のアーチの下には水が流れていました。写真で見ると立派な建造物のようですが、実際には、こんな存在感はありません。工事現場近くの枯野に埋まるように佇んでいました。


■流山ガード


 このレンガの壁、なんと19世紀の開業時からある常磐線の橋脚(橋台?)だそうです。

 もう驚いたのなんのって。何に驚いたかと言うと、この橋脚がまだ現役であるということ、そして今まで何度も通り過ぎながら、この歴史的建造物に全く気づかなかったことです(苦笑)

 この橋脚は、北小金駅と新松戸駅の間、JR常磐線の高架下をくぐるトンネルの側面を支えています。所在地は流山ではありませんが、通称「流山ガード」と言うらしいです。“発見”のきっかけは私のブログへのIKAWAさんのコメントです。

 「新松戸と北小金の間に19世紀に建造された高架跡があるそうです」。このコメントを読んだ時、第一感として、このガード下が浮かびました。確かレンガ だったよなぁ。でもねぇ、まさかねぇ、あんなしょぼいガード下が歴史的建造物とは思えないし・・・まあ、得意の思い込みです(笑)

 で、ネットで調べてみて驚愕。やはり流山ガードのレンガの橋脚が、その歴史的建造物でした。正確には1896年にできたようです。



 この流山ガードは、ご覧のように自動車1台がようやく通れるぐらいの狭さです。なのに自動車が結構通ります。一方通行ではなく、信号があって交互に通る形です。

 ですから、私はこの流山ガード、嫌いでした。自転車で通っている時に後から自動車が来ると、追い立てられるような感じで、あんまり気分の良いものではあ りません。「なんで、こんなに狭いんだよ」と毒づきながら走っていましたが、自動車のない19世紀の建造物ですから、そりゃ狭いのは当たり前ですね。

 この日、久しぶりの訪問でしたが、やはり自動車がしょっちゅう通ります。中に入って写真を撮っていると自動車が来て、慌てて外へ退避するという、その繰り返しです。ゆっくりと常磐線の歴史に思いをはせることは、残念ながら全くできませんでした(苦笑)


■キッコーマンの煉瓦蔵


 キッコーマンの「煉瓦蔵」です。野田のキッコーマンと言えば、宮内庁御用達の醤油を造る、江戸川サイクリングロード脇のお城「御用蔵」が有名ですが、その近くにこんな激シブの施設があるとは全く知りませんでした。

 1932年(昭和7年)の建築で、今も現役の醤油醸造施設です。ここで1年間、杉樽でもろみを熟成し、予約限定品の『杉桶仕込みのしょうゆ』として出荷されているそうです。妙にあざとい御用蔵と異なり、この煉瓦蔵は実にいい味わいです。



 煉瓦蔵の入り口のところまで来ると、「照明が消えている時は、このスイッチを押してお入りください」との案内が目にとまります。えっ、中に入れるんですか。こりゃ、ラッキー(喜)。で、ドアを開けてみると真っ暗。案内の通り、スイッチを押して電気をつけて入りました。なんと現役の工場施設なのに無人です!

 中に入ってみると、すぐに階段があり、2階へ上がれます。そして2階からガラス越しに、実際にもろみを熟成させている杉樽を眺めることができます。なるほど、見学場所と熟成施設の間は完全に隔離されています。これだから無人でも大丈夫なんですね。

 ただ、空調施設で熟成施設から見学場所へ空気を送り込んでいるようで、もろみの良い香りが部屋いっぱいに広がっていました。なかなか心憎い演出です。そういえば自転車は、煉瓦蔵の中の1階のところに置かせていただきました。

 もろみを熟成する杉樽はこんな感じです。ガラス越しで、しかも暗かったのですが、結構うまく撮れました。床のところにもガラスがはめこんであるため、右の写真のような竹のタガをはめた杉樽の様子を見ることができました。

 煉瓦蔵、なかなか面白い歴史的建造物でした。それにしてもキッコーマンは実に、こういう演出がうまいですね。でかくなるわけです(笑)


■小山樋門(レンガ橋/めがね橋)


 横山さんが紹介されていた松戸の歴史的建造物を訪れました。まず小山樋門。江戸川の水が坂川に逆流することを防ぐ目的で、明治31年(1898年)に建造されたもので、今は「レンガ橋」や「めがね橋」と呼ばれているそうです。

 うーん、松戸にこんなレンガ造りの樋門が残っていたのですね。全く知りませんでした。そう言えば、この前にご紹介した利根運河北岸のレンガ造りの樋管も、川の水の逆流を防ぐ建造物でした。樋門と樋管の違いですが、規模がデカイのが樋門で、小規模なのが樋管だそうです。



 ところで、この小山樋門の傍らに、こんな味のある建物があります。横山さん情報によると、この建物は松戸宿振興会が町並み保存運動の拠点だそうです。そういえば、小山樋門の周りの街並みはなんとなくレトロです。

 保存運動が成就するかは微妙なようですが、この建物の引き戸に貼られた写真を見ていると、保存を願うご町内の皆さんの思いが伝わってきました。


■柳原水閘門


 矢切取水場のところにある柳原水閘門です。小山樋門と同じく江戸川の水の坂川への逆流を防ぐ目的で、明治37年(1904年)に建造されたそうです。樋管や樋門に比べて大規模な水門です。これは、タルサ・マクリーンさんが紹介されていたので訪ねてみました。

 実は、柳原水閘門の上の道を何度走ったか分かりません。この辺りの江戸川サイクリングロードが通行止めになっていた時は、この道が迂回路でした。でも、この歴史的建造物の全く気付きませんでした。やはり、見ようとしないと、何も気付きませんね。



 そう言えば、この柳原水閘門には実際に水の流れを遮るゲートが残っています。利根運河の樋管も小山樋門もゲートが残っていないので、水門としての仕組みがよく分からなかったのですが、これで理解できました。


■陸軍工兵学校正門


 松戸中央公園にある「陸軍工兵学校正門」です。1919年(大正8年)から1945年(昭和20年)まで存在した工兵学校で、レンガ造りの正門の門柱と、コンクリート製の門衛所がそのまま、松戸中央公園の正門として残されています。



 私は流山に住む前は松戸(小金)に住んでいましたが、松戸に工兵学校があったなんて、最近まで知りませんでした。で、なんで知ったかというと、分子生物学者の福岡伸一さんが書いた『生物と無生物のあいだ』を読んだからです。

 この本の内容自体が抜群面白いのですが、特に心に残ったのがエピローグ。この人、松戸で少年時代を過ごしたそうです。その当時(1960年代後半)のエピソードがエピローグに載っており、工兵学校の廃墟で遊んだ話が秀逸です。

 東葛地域の中で最も都市化が進んだ松戸ですが、当時はまだ田舎。都市と田舎、戦前と戦後がせめぎ合う界面(エッジ)であり、二つの異なるものが出会い相互作用(エッジ・エフェクト)を起こす場所として松戸を描いています。

 読んで「なるほど!」と思いました。今は完全に都市化してしまった松戸はともかく、東葛地域が面白いのは都市と田舎がせめぎ合うエッジ・エフェクトがあるからなんですね。まあ、最終的には大好きな田舎の風景が消え、都市化が進行してしまうのでしょうけど(涙)

 著者の福岡さんは35年ぶりに松戸を訪れたそうで、都市化にのみ込まれた工兵学校の跡地も描いています。唯一残った門柱と門衛所、それにその前にある1対の大イチョウの描写が印象的でした。

 で、見にいたわけですが、事前の知識がない限り、この門柱と門衛所に心を留めないでしょうね。たんなる公園の設備として、気にせず通り過ぎてしまいそう です。今は逆に知識がありますから、眺めているとある種の感慨が・・・。この門から巣立ち戦場へ赴いた人たちのことを考えてしまいました。



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